セクソロジー・性科学・sexology
人間の性行動を研究する学問です。
性差に関する医学的問題や、性的行為そのものを対象に研究するものです。
目次
- セクソロジーとは?(LGBT研究の先駆け)
- キンゼイレポートとは?
- 創始者エリス
- クラフト・エービングとは(性的倒錯とは、フェチとは)
- マグヌス・ヒルシュフェルトとは(セクシャルマイノリティとは)
- 性と文化の革命家ライヒ(性欲の精神分析)
- マルキドサドとは(サドとは(サディズム起源・事例))
- マゾッホとは(マゾとは(マゾヒズム起源・事例))
- オスカーワイルドとは(LGBTの事例)
- T・E・ロレンスとは(性的指向の事例)
- 三島由紀夫とは(性的指向の事例)
- コリンウィルソン(性の進化)
近世になるまで性行為に関する研究は、プライバシーや宗教的・倫理的立場からの抑圧により、文学の表現は勿論のこと生物学的な立場で解析したり、統計的調査による正確な把握は一切禁止されており、決して表面に出されることはありませんでした。
しかし、ロマン主義が18世紀末から展開されることにより、自由な性・情愛的な表現が徐々に開花し、人間の性行為に矛盾が発生しました。
18世紀のパリでは、性的な行為で生殖器以外を用いることは生命の誕生を否定する神への冒瀆行為であり、死刑に値していました。一方で同時代のロンドンでは、どこの売春宿にも樺の枝笞や緊縛の道具がずらり取り揃えられ多彩なメニューが用意されていました(イギリス人のSM好きは相当なものであり、大陸側の人々は「英国的悪徳」と恐れていました)。
19世紀のロマン主義の全盛および、ポルノグラフィー作家の登場により、性と生殖の分離という社会文化史的な流れ、いわゆる性の解放・自由化への運動が加速されました。こうした中で、19世紀後半には性行為についての多面的な医学的・行動科学的研究が行われるようになりました。
20世紀に入るとキンゼイ が、それぞれ5000人を超える男女に直接面接を行い、1948年に男性の、53年に女性の性行動を初めて統計的に報告しました。この二つの報告は《キンゼイ・レポート》と総称されることになります。

ハイト(Shere D. Hite)も同様に面接調査を行い、74年に男性の、76年に女性の性意識と性行動について《ハイト・レポート》としてまとめています。

一方、マスターズ(WilliamH. Masters)とジョンソン(Virginia J.Johnson)は性行動における男女の性反応を生理的に研究し、《人間の性反応》(いわゆる《マスターズ・レポート》)を発表しました。

これらの調査、研究は現代の性科学の基礎となっています。ところが、しだいに「性」を性行為中心に分析することに疑問が出され、今日では性的能力や性的動機、性的社会性、男女の性にまつわる全ての諸問題が研究対象とされています。
キンゼイ Alfred Charles Kinsey 1894-1956
インディアナ大学の動物学者。昆虫の研究で大きな功績がありますが、今日名前が知られているのは性科学者としてです。

キンゼイはセクソロジーの世界で初めてとも言える統計的な考察を行いました。面接によるデーター収集を実に18000人に対して実行しました。
1937年に結婚に関する講演を頼まれた時に、セクソロジーに対する関心を高めました。
性行動にたいする既存の知識は貧弱であり科学的妥当性に欠けていることを見出し、主として面接形式によるデーター収集法を発展させました。最終的に、白人アメリカ人における、マスターベーション、同性愛、婚前セックス、女性のオルガスムの本質等の研究に対し統計的基礎を提供することになります。
大学自体もキンゼイの研究を推奨、性科学研究所(Institute for Sex Research, Inc. (ISR))を設立(1947)。
研究の成果は、『男性の性行動』(1948)、『女性の性行動』(1953)、に発表された。二冊は『キンゼイレポート』として後世に名を残すことになります。
キンゼイは、ピューリタニズムな紳士土壌の下で進行していた大衆の性行動の変化をいち早く実証した人物とされ、現代セクソロジーの父と評されているのです。

元来キンゼイは動物学者であり、昆虫の研究に永続的な貢献もしています
キンゼイレポート

ヒトのセックスに関する最初の総合的かつ経験的な研究書とされ、約18000人の白人アメリカ人との個人面接に基づいています。
キンゼイレポートの一部
・大学卒の女性の57%が夫にオーラルSEXをしていた
・成人男性の96%、成人女性の85%がマスターベーションをしている
・成人男性の37%、成人女性の13%が同性愛の経験がある(性交を伴わない交流も含む)
・農村部少年の六人に一人は動物と性的接触をしたことがある
・性交経験のある少女の五人に一人は妊娠の経験がある
※ただし、今日ではキンゼイのサンプリング法の正当性が問題にされています。各区分が不明瞭な点、キンゼイを支持していた白人層だけからデーターを収集していた点(アメリカ合衆国住民全体の層から収集していたわけではない)が指摘されています。
ハブロック・エリス Henry Havelock Ellis 1859-1939
性科学 (Sexology:セクソロジー) の創始者として知られるイギリスの医師です。

ロンドン近郊に船長の長男として生まれ、 世界を周遊した後にロンドンに戻って医学を修め、 開業医となりましたが、30 歳代で研究、著作に専念する生活に入ります。
文芸批評、犯罪心理学、天才研究などの業績がありますが、1894 年の《男と女》以来、性の研究に対する偏見と弾圧の強い時代に、 一貫して性の科学的研究とその体系化に力を尽くしました。
主著は《性の心理学的研究》全 6 巻 (1897‐1910) で、古今東西のあらゆる分野の文献を集成した、 一種の性科学の百科事典というべき労作です。
そもそも性科学創始のきっかけは、夢精に悩まされ続けた思春期より始まります。しかし彼を本当に悩ませていたのは嗜尿症、すなわち女性の排尿を見たいという欲求でした。
それが始まったのは彼がまだ小さな頃でした。母親に手を引かれ、リージェント・パーク動物園の庭を歩いている時、母親がふいに立ち止まりしゃがみました。水のはじける音がして、母の足元には小さな水溜りが出来ていました。母親は恥ずかしそうに「お前にこんな所を見せるつもりではなかったのに。」とつぶやきました。それからしばらくして、母親は息子に見張りをさせて、茂みの中で小用を足した。それ以来、少年エリスは、「金色の流水」(後に彼がそう呼ぶ)にとりつかれてしまいました。
彼はこのことを、ギリシア彫刻やギリシア的な同性愛と同じ分類に入れるほど素晴らしい美的体験だと確信してしまいました。

青年時代のエリスは知的でロマンチックな青年でした。魅力的な女性に出会うと「永遠の女性の化身」として崇拝しました。そして女性に対してよく使う言葉は
「魂の友」
この言葉は、女性解放論者(フェミニスト)やレズビアンに、とても快く聞こえました。エリスの周りには、多くの崇拝者が集まってきました。そして好青年であった彼は、多くの教養のある女性たちを不思議な魅力で説き伏せて自分の目の前で放尿させました。
エリスは彼女達を「水の精」と評し、雨のオックスフォード通りの人ごみの中で、たったまま放尿させるのを好みました。女性達はそれを
「甘美な恥ずかしさ」
と表現しました。
エリスの大きな功績の一つとして、同性愛は性倒錯でないと主張した点です。同性愛は性癖ではないとし、性倒錯と分離して研究しました。これは今日で通用する研究姿勢です。
彼は同性愛者ではありませんでしたが、彼の妻「エディス・リー:Edith Lee」はレズビアンでした。エディスはかつて父を恨み、それ以来全ての男性に対し深い不信感や呪い的なものを抱いていました。しかしエリスの魅力で「バイセクシャル」に転向しました。エリスは積極的な女性が苦手だったので、敢えてレズビアンを妻として選んだのです。
やがて彼は自体愛 (オートエロティズム) やナルシシズムなどの術語を体系化し、 自慰の有害性を否定、女性に対する差別、 偏見を批判し、S.フロイトをいち早く評価するなど、 優れた批判精神によって、現代にいたる性の科学的研究の基礎をつくりあげた。 また 1926 年に国際性科学会議を創立した功績も高く評価されています。

イワン・ブロッホ 1872-1922
「性科学」という用語そのものを初めて使用したのはブロッホです。彼はサドを研究していた医学者でした。医学に限らず人類学の概念も導入、近代セクソロジーの基礎を築きました。
クラフト・エービング Richard von Krafft-Ebing 1840-1902
ドイツの精神医学者です。マンハイムに生まれ、シュトラスブルク大学、グラーツ大学、ウィーン大学などの精神医学教授を歴任し、 1879 年に《精神医学教科書》を著して医学界に大きな影響を与えました。

しかし、彼の名が今日知られるのは、異常性欲者の詳細な記述と分類を試みて 1886 年に《性的精神病質》を公刊したことによります。彼はどんな人間の妄想にも共感的に耳を傾け、正確に記述しました。この本はその後改訂を重ね、分類、命名も変化しましたが、サディズム、マゾヒズム、同性愛、屍姦、快楽殺人、性欲亢進症、性欲欠乏症など、重要な類型のほとんどを記述・命名しています。
彼は精神鑑定医として各国の裁判所から性犯罪者の鑑定を依頼された多くの臨床経験から、この仕事を成し遂げ、性科学の創設者の一人と目されています。さらに、犯罪心理学、司法精神医学の創設者の一人としても高く評価されています。
マグヌス・ヒルシュフェルト Magnus Hirschfeld 1868-1935
ドイツの医学者です。
服装倒錯、同性愛、性転換、に対する科学的研究の第一人者です。

1868年ドイツのコルベルクにユダヤ人開業医の息子として生まれます。当初、作家になりたいと考えていたが、科学と医学に転じました。
彼は、医学をストラスブール、ハイデンブルク、ベルリンの各大学で学び、1892年学位を得ました。その後、シャルロッテンブルクで診療所を開業します。
彼はルーマニアのブカレストとトルコのコンスタンチノープルで去勢者に対する研究を行い、「愛の自然法則」及び「去勢者の性的反応機序の研究」を発表(1912)。彼は睾丸と卵巣から産出される内分泌物が性衝動に決定的な影響を持つと主張しました。
彼は同性愛の研究にも没頭し、「男と女の同性愛」(1914)を発表するなど、有史以来から当時に至るまでの同性愛に関する全ての知見を集大成することに努めました。
1928年、大著「(性の)系譜学」全5刊を表し、性科学を包括的に提示しました。
ヒルシュフェルトは、同性愛者の人権獲得にも努力し、科学的人道委員会を設立した功績もあります(1897)。
晩年は、ナチスに迫害される日々を送りました。彼の学問はナチスに受け入れられる存在では当然無く、研究所は破壊され、著書は公開の場で焼かれてしまいました。
1935年の誕生日に、ヒルシュフェルトは路上で突然倒れ、劇的な生涯を終えます。

ヒルシュフェルトが性科学の研究を始めたきっかけは、彼の患者が同性愛を苦にして自殺を図ったことでした。
ヒルシュフェルトは患者に対して献身的な診療を行う、優秀な医学者でした。
同性愛の他に、エリスの提唱していた、男の女装症(Eonism)や女の男装症に関しての研究もおこないました。
やがてヒルシュフェルトは服装倒錯(Transvestism)という言葉を作り、服装倒錯者は同性愛とは異なりほとんどが異性愛者であることも明らかにしました。
また性転換症を、細かく分類することにも努めました。
献身的なヒルシュフェルトのもとには、常に多くの来談者が訪れていました。
マグヌス・ヒルシュフェルトの事例集でもある「性異常と性倒錯」には以下の事例が記されています。
・恋人に噛み付いてその血を吸いたいという衝動に苦しんでいる女性
・鶏の羽根でペニスの先端を撫でると絶頂に達するという青年
ウィルヘルム・ライヒ Wilhelm Reich 1897‐1957
オーストリア生れの精神分析学者です。ウィーン大学卒業後、ウィーン精神分析診療所で、精神分析とマルクス主義の統合を目ざして活躍する一方、精神分析技法ゼミナールを主宰して、研究と指導に専念しました。

患者の態度やふるまいに現れる性格抵抗 (主要な抵抗) に注目した〈性格分析〉の理論と技法とを追求して、 《性格分析》 (1932) を発表し、古典的精神分析から現代の自我心理学的精神分析への発展の端緒を切り開きました。
社会学的見地に立ち、社会適応を重視した性格形成論、性を社会的抑圧から解放し、〈性器性欲の優位性〉を確立して、健康なオルガスムの体験能力を獲得することこそ健康の基盤であるとする性革命理論などが知られています。
著書はほかに《衝動的性格》 (1925)、 《ファシズムの大衆心理》(1933)、《性と文化の革命 》(1945) など多数にのぼります。

ライヒは子供時代に関してあまり語らない人間でした。その理由として、父と母が共に自殺している点があげられます。
13歳の時、母・セシーリアが自分の家庭教師と不倫している現場を目撃してしまいます。ライヒはそのことを父・レオンに告げました。
精神バランスを崩した父は、母を詰問し、やがて自殺に追いやりました。そして自身は、わざと真冬の凍った池に何時間も立ち続け肺炎で死んでしまいました。両親が自殺したのは自分のせいではないかと、ライヒは後悔し続けることになります。
こうした中で、全ての人間は「性欲」(リビドー)に支配されているというフロイトとの出会いは衝撃的でした。やがてライヒはユングが抜けた後の精神分析学会で精力的に活動を行います。
しかし、晩年のフロイトは、「性欲理論」を社会に受け入れられやすいように、改定をしました。またユングはリビドーを「性」ではなく生命エネルギーと定義し、右脳と左脳のメカニズムにまで迫ろうとしていました。
しかしライヒは時代に逆行する形で、性欲理論を補強しました。
「全ての人間はオルガスム(性的快感)を求めて生活している」
彼は、神経症で悩むオールド・ミスの患者にマスターベーションを勧めました。自虐癖のある患者に「では実際に打ってみようか」と臨みました。どれも、確かに症状は好転したのです。
そして、性の解放と称し
・未成年者の避妊教育の実践
・堕胎の権利の確立
遂には、性志向の全面的な解放を行えば、神経症や性倒錯、そして犯罪の一切存在しない理想郷が誕生すると主張しました。
・・・ライヒの思想は禁欲を重んじる20世紀初頭のヨーロッパ社会で、当然受け入れられるような内容ではありませんでした。師匠フロイトも、この「明らかに行き過ぎた理論」に不信感を抱きつつあったのです。共産主義者としても積極的に活動していましたが、 33 年ドイツ共産党から、 ついで 34 年国際精神分析学会から除名され、ストックホルムやオスロ を経て、39 年アメリカに亡命しました。ライヒが主張する「性の解放」を全ての人間が嘲笑したのです。
そのころから精神に変調をきたし、「オルゴン・エネルギー(オルガスム、生命、性的なエネルギー)」と名付ける宇宙エネルギーの存在を信じこれに熱中するようになりました。
世界には至るところに「オルゴン・エネルギー」が満ちている。それが細胞や生命を動かしていると考えました。愛するものと別れるとオルゴン・エネルギーが不足して病気になる。しかし休養すればオルゴン・エネルギーが充電されて再び健康になると考えたのです・・・。
このエネルギーを集める力を持った〈オルゴン・ボックス〉に入ると、すべての性障害が治ると称して、ライヒは金属箱を販売しました。しかし、これがアメリカの薬事法違反に問われることになります。
それまでのライヒは、思想は別として、かつてフロイトから教えをうけた精神科医として極めて優秀な評価を受けていました。よって裁判に負ける可能性は低かったのです。しかし、ライヒは陪審員達にこういいました。
「オルゴンエネルギーを暴発させて大洪水を引き起こしてやるぞ」
ライヒは裁判中、法廷侮辱罪で投獄され、不遇のうちに獄死してしまいました。
尚、ライヒの心身相互作用に着目した療法は、今日の心身医学や心理療法で用いられるボディワークの始まりとされています。
マルキ・ド・サド Marquis de Sade 1740-1814
フランスの小説家です。

七年戦争に参加したのち、司法官の娘と結婚しましたが、アルクイユの乞食女鞭打事件 (1768)、マルセイユのボンボン事件 (1772) などのスキャンダル(当時は重罪であった肛門性交の強要)を引き起こし、ために生涯の 3 分の 1 以上を獄中で過ごすことになります。
フランス革命とともに釈放され (1790)、一時は政治運動に挺身しますが、恐怖時代に反革命の嫌疑でふたたび下獄。さらにナポレオン体制下に筆禍を招き、死ぬまでシャラントン精神病院に監禁されました。ナポレオンは彼の作品に度々激怒していました。
彼の遺言状は「自分の名を永遠に世人の記憶から抹殺せよ」
作品には、2 人の姉妹の運命を対照的に描いた《ジュスティーヌあるいは美徳の不幸》(1791) と《ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え》(1797) のほか、同じテーマの《新ジュスティーヌ》 (1797)、書簡体小説《アリーヌとバルクール》 (1795)、辛辣な対話体の《閨房哲学》 (1795)、短編集《恋の罪》 (1800) などがあります。
彼の性格形成は、少年時代にマスターベーションの光景を家庭教師に発見されてしまい、彼女からの懲戒(尻叩き、鞭打ち)が後に大きな影響を与えたとされます。
どの作品も強姦、拷問、手足切断、殺人に満ちており、読んでいると正常な人間は気分を害することでしょう。生皮を剥れる子供を、互いの苦しみを見せつけられる家族の苦悩を、ロバのペニスで貫かれて死ぬ女性を、平然と書いてしまいます。
作品の一つ「悪徳の栄え」の最後はこう記されています。
・・・幼い娘が自分の愛人に犯され、アヌスまで陵辱される。子供はやがて火の中に投げ込まれて焼け死ぬ。
それを平然と眺めていた母親が、最高の快楽を叫んでマスタベ―ションする。
サドが途方も無く、邪悪な人物であったことは確かです。
サディズムの名称は、現実に数多くの性的虐待を実行し、しかもこのような性的乱行を小説の主題としたフランスのサド侯爵にちなんで、クラフト・エービンクによって命名されました。
・狭義には、他人に苦痛を加えることによって性的満足を得ようとする性倒錯をさします。
・広義には性的満足は伴わなくても、残酷さの中に喜びを見いだす傾向は広くサディズムとみなされます。
S.フロイトならびにK.アブラハムの精神分析的人格発達理論においては、
・乳児が母親の乳房をかむことに満足を感じる時期 (口唇サディズム期oral‐sadistic stage)
・幼児が親の意に反抗して大便を貯溜したり排泄したりすることに満足を感じる時期 (肛門サディズム期anal‐sadistic stage)
にこの用語をあてています。このように古典的精神分析学においてはサディズムの概念は人間誰にでもある現象に対して用いられ、皆これを通過していくものとみなされている側面もあります。
長く黙殺されていたサドの思想的文学的価値は、19 世紀末のドイツ圏の精神医学者や文学者達の努力によって復権され、現在では文学的な扱いを受けています。
日本では、数々のサドの作品を翻訳した仏文学者「澁澤龍彦」が評価されています。
マゾッホ Leopold Ritter von Sacher‐Masoch 1836-95
オーストリアの小説家です。 オーストリア・ハンガリー二重帝国下のガリツィアのレンベルク (現、 ウクライナ領リボフ) に生まれ、ヘッセンのリントハイムに没しました。

プラハとグラーツの大学で歴史学を学び、 弱冠 20 歳でグラーツ大学の新鋭歴史学講師として立ちますが、まもなくアカデミックな経歴を放棄して作家稼業に専心。 主として故郷ガリツィアの農民やユダヤ人の生態をテーマに数々の物語を書きます。
代表作《毛皮を着たビーナス》(1870) は、 〈ギリシア人〉と称する美男に恋人ワンダを奪われながら、2 人に下男として仕える苦痛に快楽を覚える青年 S.クジエムスキーの性的偏倚 (へんい) を描いたものです。 しかし、そこから彼の驚くべき恋愛神話が始まります・・・・
実生活では人妻 A.コトウィッツや女優 F.ピストール等との情事の後に、グラーツの貧しいお針子 A.リューメリンと遭遇して結婚、 彼女に自作の女主人公の名にちなんでワンダ・マゾッホを名のらせ、小説の筋書どおりの姦通を強要する奇行にふけったのです。

その為、彼の作品傾向並びに性的奇行が、 〈サディズム〉のサド侯爵とともに精神医学者クラフト・エービングの注目するところとなり、 〈マゾヒズム〉の定義の下に典型化されました。
マゾヒズムという名は、好んでこのような性的行為を描いたオーストリアの作家マゾッホの名にちなんで、精神科医クラフト・エービングにより与えられたものです (1890)。
・狭義には、相手(時には自分自身) から身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯をいいます。
マゾヒズムの心理機制は、サディズムが反転して自己に向いたもの、サディスティックな相手への同一視、罰や苦痛を経験することによる快楽を伴った罪意識の軽減、本来権威的な両親像をなだめるためにとられた従順な役割の性愛化、〈死の本能〉 の無意識的表現などが考えられています。また、今日のリストカットや薬物乱用を初めとする自傷行為にも、関連性が議論されています。
精神療法的な二人関係においても、無自覚なままに支配と服従、攻撃と甘受といった対人様式が固定的に形成されてしまう場合、それはサド‐マゾヒズム的な関係と表現されます。
オスカー・ワイルド Oscar Wilde 1854‐1900
イギリスの詩人、小説家、劇作家です。

「誘惑から逃れる唯一の方法、それは誘惑に屈することだ」
《ドリアン・グレーの肖像画より》
オックスフォード大学在学中に、W. H. ペーターの唯美主義やJ. ラスキンの芸術観に強く影響を受け、機知と才気を存分に発揮して詩作に没頭します。
卒業後ロンドンに出て社交界の人気者となり、芸術至上主義を身をもって実践する才人として、多くの若者のあこがれの的となる一方、そのキザな言動は河笑の的にもなりました。
私生活では、クイーンズベリー侯爵の息子アルフレッド・ダグラスと同性愛の関係を結んだが、これが表ざたとなり2年間レディング監獄に収容されてしまいました。
1897年釈放後フランスに移りますが、不遇な生活の後パリで死亡します。
主な作品は、《幸福な王子》(1888童話)、《ドリアン・グレーの肖像画》(1891小説)、《意向集》(1891批評論集)、《社会主義下における人間の魂》(1891)、《深淵より》(獄中からダグラスにあてた手紙の形)、《レディング監獄の歌》(1898年詩集)他。彼の才能が今日でも高く評価されているのは、劇作品です。機知にあふれた風俗喜劇《ウィンダミア夫人の扇》(1892初演)、彼の唯美主義が如実に示されている《サロメ》(フランス語で書かれ1893年パリで出版。英訳は1894年発表)、《誠こそ大切》(1895)等。
ワイルドは幼少の時、母から「女児として」育てられました。この体験が、「ワイルドの二面性」に大きな影響を与えることになります。
母フランセスカは、長男ウィリアムが生まれた二年後にワイルドを産みます。
実は、フランセスカは女の子が欲しくて仕方がなかったのです。ワイルドが生まれる以前、すでに女児用の衣装を数多く用意してしまいました。女児願望とワイルドへの愛情が複雑に交差して、実に5歳頃まで女児の服装をさせ、女児として育てました(5歳の時にワイルドの妹アイソラが生まれたのです)。

(2歳頃)
その後のワイルドは、オクスフォード大学に進学し高い教養を身に着けても、或いはその後の人生にしても女装をすることがありました。彼は明らかな服装倒錯者(Transvestism)として、かつ唯美主義を実践する詩人でもあったのです。
唯美主義:審美主義、耽美主義ともいいます。美をなによりも優先させる態度一般をいいます。19世紀以降の唯美主義は観念的美の世界と悪魔的な官能美への惑溺を表します。
T・E・ロレンス Thomas Edward Lawrence 1888‐1935
イギリスの探検家、考古学者、陸軍指揮官です。通称〈アラビアのロレンス〉で有名です。

オックスフォード大学で考古学を学び、ことに中近東に関心をもち、1910‐14 年大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加します。
第 1 次世界大戦勃発後、陸軍情報将校としてカイロに派遣され、ドイツ側に参戦したトルコの後方かく乱を計画、トルコ支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に挺身し、アカバ・ダマスカスの重要拠点の解放に成功。
19 年パリ講和会議にも出席しますが、アラブに対し戦後の独立承認を約束しながら、これを果たさないイギリス政府に失望します。
21 年、W.チャーチル植民相の下にアラブ関係顧問となり、ファイサルを国王とするイラク王国の成立に努力しますが、政府のアラブ政策を不満として翌年辞任。その後、偽名で戦車隊、空軍に一兵士として勤務し、 35 年除隊、まもなくオートバイ事故で死亡します。主著にアラブ独立運動の記録と自身の哲学を記した《知恵の七柱》(1926) があります。
彼の半生は 1962 年、デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演《アラビアのロレンス》(作品賞ほか各種アカデミー賞受賞) として映画化され、高い評価を今もされています。

母・セアラは以前、実母をアルコール中毒で亡くし、厳格でヒステリックな女性でした。
彼女は息子達を厳しく育てた。母との確執によって、ロレンスの複雑な性格が形成されます。セアラは5人の息子を育てたが、結婚をしたのは五男のアニーただ一人でした(ロレンスは二男)。ロレンスは生涯独身で、女性との性的関係はなかったというのが定説です。男性として、女性に欲望を感じたことはなかったのです。
ダマスカス占領(1918)後、ジャーナリスト、ローウェル・トマスが記した「アラビアのロレンス(と共に)」は大西洋の両岸でベストセラーになり、たちまち社交界の女性達が注目します。しかし彼は彼女達を避けるようにしていました。彼は古代史の研究の中で、必然的にギリシア文明の同性愛に関する知識は持ってましたが、同性愛者であるかどうかは不明です。
しかし彼はマゾヒストでした。《知恵の七柱》第80章に、彼がデラーの街でトルコ兵に捕まり拷問を受けた体験を記している。そこで彼は下士官から鋲のついたブーツとチェルケス鞭で拷問を受けます。
「・・・その男に向かって力なく微笑みかけたという記憶があった。というのも、体中が、たぶん性的な、甘味な興奮に満たされていたのだ。すると男は腕を振り上げ、鞭を思いっきり私の股間に突き立てた。私はうずくまって絶叫した・・・」
「・・・あの夜デラーで、私のある部分が死んだ」
と記述しています。
ロレンスは、作家バーナード・ショーの夫人に宛てた1924年3月26日付の手紙でこう告白します。
「・・・(あの時)肉体の純潔をくれてやったのです。許されないことでありもう取り返しがつきません。私はまっとうな暮らしをする資格を失ったのです。」
1922年より、ロレンスはそれまでの栄光を捨て、静かで奇妙な生活を始めます。雑用夫ブルースと共に、偽名を使って一兵卒として軍事訓練を受ける日々を送っていたのです。
ある日ロレンスはブルースに、教会のパレードに参列しなかったので「おやじ」が腹を立て、罰を受けるように命じてきたと語り、タイプで打った手紙を見せた。ブルースは、しぶしぶ言われるがままにロレンスの尻をズボンの上から鞭打った。ところがその日遅く、ロレンスは
「(おやじに)、罰がまだ足りないと言われた。尻をじかに鞭打たなきゃだめだそうだ」と言い、尻から血が出るまで鞭を打たせた。
それ以来、この奇怪な習慣が続いた。ブルースは度々「おやじ」からの手紙を受け取った。内容は、
「品行は改まったか、もっと鞭で打つように」
であった(手紙はロレンスが自作した可能性があります)。
彼の不幸と孤独は、アラブの独立に捧げた純粋な理想主義が、 イギリス帝国の権力主義的な中東政策によってしだいに裏切られていくところが原因とされている。
一方でロレンスは心の平安を平凡の同義語と考える人間でした。ロレンスの天才的な才能には、マゾヒズムや性別を感じさせない態度が大きな要素の一つだったのです。
三島由紀夫 1925‐1970
小説家、劇作家です。本名は平岡公威 (きみたけ)。

彼は1925年1月14日、両親が同居していた祖父母の家で生まれます。
1931 年学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学びます。この時代に文学活動を開始し、第 1 作品集《花ざかりの森》(1944) を刊行。 20 歳で敗戦をむかえるが、敗戦を何ものかの喪失と感じた時代感覚は、のちに三島の思想の根幹を形づくる。彼は時代にとり残された孤独人でした。
47 年に東大法学部を卒業。 49 年に《仮面の告白》を刊行して作家としての地位を確立します。
52 年におけるギリシア訪問を契機に、ギリシア的な健康への希求が生まれ、牧歌的な小説《潮騒》(1954) に行き着いたただけでなく、のちにボディビルで肉体を鍛える態度の伏線を形づくります。 56 年に《金閣寺》で芸術的な一つの到達点を極めます。
60 年安保のあと二・二六事件に取材した《憂国》(1961) にいたって〈戦前〉的なものが作品に入りはじめます。この傾向はやがて鮮明になり、67 年に自衛隊に体験入隊、 68 年に〈楯の会〉を結成します。70 年 11 月 25 日に自衛隊市谷駐屯地へ会員と共に日本刀を携帯して乱入し、自衛官の決起をうながしたが果たせず、舎弟森田と割腹自殺しました。三島のニヒリズムを持った知的な文体は今日でも高い評価を得ています。

祖父の平岡定太郎はかつて樺太長官を勤めました。しかし、金銭がらみのスキャンダルで辞職を余儀なくされ、その後事業家になりましたが、十年ほどで破産します。生後まだ七週間の時、神経症を病んでいた祖母夏子はその子を母の手から取り上げ、自分の病室にベビーベッドを置きます。それから12年間、夏子は孫を独り占めし女の子のように育てます。その子は他の子供達と遊ぶことを許されず、両親にもほとんど会えませんでした。
周囲から隔離された世界での唯一の遊び相手は祖母の書斎にあったハンス・アンデルセンやオスカー・ワイルドの童話でした。アンデルセンの「薔薇の妖精」は三島の潜在的サディズムを目覚めさせます。「恋人が記念にくれた薔薇に接吻しているところを大きなナイフで悪党に刺し殺され首を斬られる美しい若者」の物語です。こうした物語は三島のサディスティックな夢想の素材となってしまい、強度なサディズムや同性愛的志向の素地になりました。
彼は14歳の時、剣闘士達が血まみれでのたうち回る「殺人劇場」を考案します。また海水パンツの男を見て、「切腹する若い侍の姿と、まだ太っていない筋肉質の相撲取りのイメージ」とが交じり合い、性的な高揚感を体験します。自伝的小説「仮面の告白」には、矢に射られた聖セバスチャンの絵を見て初めて射精を経験するという場面があります。のちにボディビルを始めて、病弱な身体が改善されます。自信をつけた三島はヤクザ映画に出演したり、自分の裸体を記した写真集の発表をおこないます。68 年に結成した楯の会の制服は、旧軍を意識しつつも派手過ぎるデザインでした。

晩年における彼の思考には、悪魔的な官能美の一面もうかがえます。人間の精神世界を全て体現した彼にとっては、もはや死しか求めるものは無かったのかもしれません。
コリン・ウィルソン Colin Henry Wilson 1931‐2013
イギリスの評論家、小説家です。

レスターに靴屋の長男として生まれ、土地の高校ゲートウェー・スクールを卒業後、 1949‐50 年まで空軍に勤務したのち、パリやストラスブールで職を転々としました。51‐53 年までロンドンで労働者の生活をし、土管の中で野宿しながら大英図書館で独学に励みます。やがてブルジョア社会における実存主義者のあり方をその内側から論じた『アウトサイダー』(1956) で一躍文壇に登場。この後『闇の中の祝祭』 (1960)、『ガラスの檻』 (1966) など数多くの小説、性哲学、スリラー、ミステリー、SF を発表しました。
しかし、彼の本領はあくまで『宗教と反抗人』(1957)、 『敗北の時代』(1959)、『アウトサイダーを超えて』(1965) といった哲学的人生論や、『詩と神秘主義』(1970)、『オカルト』(1971) といった「宗教的」関心を示す評論にあり、ヨーロッパ大陸のペシミスティックな実存主義に対して、生命肯定、人間意識の高揚を求める新実存主義がその基本的な姿勢です。
彼の一貫するテーマは「退屈な日常からの脱出」です。
ウィルソンの性に関する見解は以下の通りです。
・・・偉大なる才気は必ずや狂気と結びついている。実際大芸術家のほとんどは性格が不安定である。
(アウトサイダー / コリン・ウィルソン [著] ; 中村保男 訳 東京 : 集英社, 1988.2)
*ここでいう「芸術家」とは、科学・哲学・文学・美術・音楽等々・・・「文化の創造者」と訳しても良いでしょう。ただし、ウィルソンは同性愛や性倒錯が、天才たちの創作活動の驀進剤ではないとはっきり主張しています。
彼自身、ノーマルな人間であり、円満な家庭を持ち息子と娘もいます。それが思考の冷静さを保っています。
・・・性的異常の様々な形を検討し、人類において性はより高次元に「象徴的」次元にまで進化した。
(性の衝動 : 新実存主義への道 / コリン・ウィルソン [著] ; 大竹勝 訳 東京 : 竹内書店, 1964.1)
彼はそこに「性の進化」があると結論づけています。
ウィルソンは性を二面的なものとしてとらえています。
それは性別に限らず、強さと優しさ、喜びと悲しさ、サディズムとマゾヒズム・・・人間の精神世界全てを表しています。
ゲーテのいう男性性と女性性、それをユングは「アニマ」と「アニムス」に分類していた事より、
・・・偉大な芸術家は、「自分と反対のもの」を理解し、それを検討する能力において他に抜きん出ている。
人間の進化において、自分の本質の二面性を理解し、意識的にそれを利用することにより、人間の意識はより高度な強度を達成する。
それこそが太古より進化を続けた文化的創作活動の源と主張しています。そして中には意識を補強せねばならない人間がいます。ちょうど我々が小説を読むだけで満足する人間もいれば、むしろそれを題材にした映画やアニメの方に興奮を得られる人間がいるように。
・・・偉大な芸術家に多い性的な逸脱行為は、ギリシア人が演劇を発明することによってトロイ戦争やオイディプス王の物語が何倍も現実に感じられたことと同じように、創造力を補強するためのものである。(性のアウトサイダー / コリン・ウィルソン 著 ; 鈴木晶 訳 東京 : 青土社, 1989.7)
以上がウィルソンの見解です。
【以下、性のアウトサイダー / コリン・ウィルソン 著 ; 鈴木晶 訳 東京 : 青土社, 1989.7 第1章 シャーロット・バッハの秘密 の要約】
すでに著名な業績をあげていたウィルソンの所に、彼の著書に感銘を受けたとする女性心理学者「シャーロット・バッハ博士」が表れます。不思議な魅力を秘めた彼女は長年「性倒錯」の研究を続け、その起源にもう少しで結論が得られるといいます。それには「服装倒錯」(異性の服装を着用する事により性的快楽が得られる人間)が根本的に絡んでいるとし、共同研究を申し出てきたのです・・・。
ウィルソンは当初、彼女は特別な性差を抱えているのではないかと考え、「レズビアン」と推測しました。しかし彼女はノーマルであることに気付きます。そもそもシャーロットは同性に興味を示さなかったし、キスが上手かったのです。
ウィルソンは彼女との服装倒錯研究で、性倒錯者には極めて知的水準の高い人物が多い光景も目の当たりにします・・・
その一人、オックスフォードの教授はツイードの服とパイプたばこをこよなく愛する、どこから見てもまったく正常としか見えない紳士でした。インタビューの前に彼はシャーロットにこう尋ねます。
「普段と同じにしていいかね?」
彼女が「どうぞ」と答えると、彼はいきなりズボンを脱ぎます。そこには黒いレースの下着をはき、ストッキングをガーターで留めていた教授の姿があったのです。そして彼はおもむろに肘掛椅子に腰掛け、パイプを片手に「さあ、どうぞ始めて下さい」と優雅にインタビューに答えました・・・。
ある日シャーロットはシャーマニズム研究の文献を読むうちに、精神的な至高体験を味わいます。
「そうよ、あれのことだわ、進化のことよ!」
彼女は謎のメッセージを残し、不慮の事故で1981年6月17日に突然死してしまいます。ウィルソンは驚くべき事実を知ることになります。警察が死体安置所で服を脱がせると彼女にはペニスがあったのです。何と「彼女」自身が男性の服装倒錯者だったのです・・・
シャーロット・バッハ博士は「性欲進化説」を打ち立てていました。
・トゲウオの半雄半雌行動 (ある面積で個体数が増えすぎると、一部のオスの体色が薄くなり、正常なオスを誘惑する。正常なオスは射精するが当然個体は増えないので、翌年は飢え死にを出すことなく縄張りがみんなにゆきわたる)
・無性的な生活を送るシャーマンが瞑想でしばしば長時間にわたる恍惚を得ていた
点に彼女は着目しました。
シャーマンは性を超越してしまったのであり、何時間にもわたる神経エネルギーの放出を引き起こすほどの力にまでなっていたのです。性の超越(無性化)こそが人間の進化であり、全ての社会問題(人口問題、凶悪犯罪・・・)の解決につながるのです。その進化行動こそが「服装倒錯」に違いない!
・・・ウィルソンもさすがにシャーロット・バッハ博士の理論を全て受け入れることはできませんでした。しかし「性の進化」に気付いた点は特筆すべきとして、以下数百ページにわたる彼の考察が続きます。
参考文献:
Sex research at the Kinsey Institute(APA)
Kinsey Institute for Research in Sex, Gender, and Reproduction(Britannica)
Library of Congress
Classics in the History of Psychology
精神医学事典 / 加藤正明 編者代表 東京 : 弘文堂, 1993.2
パトグラフィーへの招待 / 福島章,中谷陽二 編 東京 : 金剛出版, 2000.4
最新キンゼイ・リポート / J.M.ライニッシュ,R.ビーズリー 著 ; 小曽戸明子,宮原忍 訳 ,1991.11
現代セクソロジー辞典 / R.M.ゴールデンソン,K.N.アンダーソン 著 ; 早田輝洋 訳 東京 : 大修館書店, 1991.4
性と精神分析 / S.フロイト [著] ; 井村恒郎 訳者代表 東京 : 河出書房新社, 1957.8
変態性欲心理学 / R.クラフト=エビング [著] ; 平野威馬雄 訳 東京 : 河出書房, 1956.11
戦争と性 / M.ヒルシュフェルト [著] ; 高山洋吉 訳 東京 : 河出書房, 1956.11
性対象倒錯 / ハヴロック・エリス 著 ; 佐藤晴夫 訳 東京 : 未知谷, 1995.12
性愛の象徴化 / ハヴロック・エリス 著 ; 佐藤晴夫 訳 東京 : 未知谷, 1996.2
性と社会 / ハヴロック・エリス 著 ; 佐藤晴夫 訳 東京 : 未知谷, 1996.4
感覚と性的淘汰 / ハヴロック・エリス 著 ; 佐藤晴夫 訳 東京 : 未知谷, 1996.7
セクシュアリティの歴史社会学 / 赤川学 著東京 : 勁草書房, 1999.4
フェティッシュ・ファッション : 変貌するエロスと快楽身体 / 秋田昌美 著 東京 : 青弓社, 1990.6
性のアウトサイダー / コリン・ウィルソン 著 ; 鈴木晶 訳 東京 : 青土社, 1989.7
葉隠れ・武士道は生きている / 三島由紀夫 著 ; 東京:光文社、1967.9
オスカー・ワイルドの生涯 愛と美の殉教者 / 山田 勝 著 東京 :日本放送出版協会, 1999.11
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